ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、アレン・ギンズバーグ、アル・クーパー、ウディ・ガスリー、マーティン・スコセッシスコセッシは、ディランのキャリアの初期にスポットを当てた200分あまりの当作品で、これまでにない深さと多角的なアプローチでディランにせまる。その結果は豊かな人物像だ。メインの語りは叙事詩のようだ。冷戦時代のミネソタに育ったディランの子ども時代から、グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスやニューポート・フォーク・フェスティバルまでを描く。クライマックスは放逸な創造性が爆発し、伝説となっている1966年の英国ツアーだ。ロバート・アレン・ジママンからボブ・ディランへの変身で、時事性と古代のお告げのような性質の組み合わせという、筆舌に尽くしがたいユニークな現象が見られる。スコセッシは、公演、記者会見、収録の模様など、未公開のディランのアーカイブ映像を入手した。さらに、ディランの友人や元友人、仲間のアーティスト、そして公に姿を見せないことで知られるディラン自身の興味深いインタビューも収録している(ディランは自らのキャリアの初期を振り返り、注釈を加えている)。退屈な余談や脱線の連続になりそうなところを、ディラン本人と同様に発見が多い、エキセントリックで矛盾に満ちた、簡潔に要約などできない作品に仕上げている。
非常に私的な部分はいまだに公開されていないが、過去を振り返ってのディランのコメントでは、不自然なまでの自信に、少しの自己批判と喜劇的なひねりが加わっている。傲慢な反面、若いアーティストとしてウッディー・ガスリーやジョニー・キャッシュ、ジョアン・バエズに対する尊敬を心を込めて告白する感動的な場面もあり、故アレン・ギンズバーグが高尚なまでの魅力を見せてほとんど主役を食ってしまう場面もある。全体を貫くもっとも重要なラインは、ディランが世界に認められることを強く求めていたことと、ありきたりなフォーク・シンガーとは一線を画した存在として自らをアピールできたことである。これを背景にしてディランが見せた「裏切り」に対し、聴衆からのブーイングが起きたときのディランの反応は、新鮮な発見だ。とくにのちのディランがステージで見せた超然とした態度しか知らない者にとってはなおさらだ。『ノー・ディレクション・ホーム』は、ディランの自分のペルソナを常に操る能力が、その奥底で、表現の推進力を保護していたことも明らかにする。これは、D・A・ペンネベーカーの『ドント・ルック・バック』でも見られなかった一面だ。ディランがアーティストとして究極的に何を動機としてきたのかは、けっして特定できない。ディランについて発見すればするほど、ディランをめぐる神話は大きくなるばかりだという事実を、スコセッシは見事に示してみせた。(Thomas May, Amazon.com)